東南アジアで唯一どこの国の植民地にもなることなく、独自の文化と発展を遂げて来たタイ王国は、少なくとも5000年前には稲作を始めた世界最初の農耕民族と言われている。豊かな大地のもとに生まれた各王朝時代を経て、現在のタイ王国が少しずつ形作られていった。タイを旅するなら少しでも歴史を知っていた方が、よりタイ王国のロマンを肌で感じられるはずだ。
現在のタイ国の地にタイ族の国家が生まれたのは13世紀頃だと言われている。それまではモン族の国・ドラバラディ、マレー人の国・シュリービジャヤ、クメール人の国・クメールなどがあった。ドラバラディはチャオプラヤー川下流域を中心に、ナコンパトムなどいくつもの塀で囲まれた都市を作っており、仏教を中心とする高度な文化圏が存在していたようだ。シュリービジャヤは、スマトラ島からマレー半島に至る地域で海上交易を行う大乗仏教を信仰する国だった。また、クメールは、カンボジアのアンコールを首都として、タイ東北部はもとより、13世紀初めにはタイ全土を支配していた。その結果、現在のタイ王国にクメール美術、言語、宗教などの文化的影響をもたらした。
13〜14世紀頃、メコン河流域に点在していたいくつかの小国家がまとまり、1238年、シー・インタラーティット王のもとタイ民族初の統一国家・スコータイ王国が建国された。クメール勢力の衰退に乗じて大きく勢力を伸ばし、領土はラオスやシンガポールの方にまで及んだと言われている。また、3代目となるラムカムヘーン王はタイ文字の発案、スリランカから伝わった上座部仏教を国教として制定、交易の自由を認めるなど、内政面や文化面で今日のタイ国家を形成する基盤を創った。
スコータイ王朝と平行して北部の方では、メンライ王によりランナータイ王朝が建国される。チェンマイを都に置き、メコン河中域の小国家だったヴィエンチャンを支配下に置くなど勢力を広げたが、1558年にはビルマ(ミャンマー)の属国となった。
1351年、ウー・トン候はアユタヤに都を移し、自らをラーマティボディ1世と名乗り、アユタヤ王国を築いた。以降、歴代34人の王による統治が400年続く一大王朝となった。しかし、その歴史は平坦なものではなく、初期はクメールやチェンマイ、16世紀中頃からはビルマ(ミャンマー)に侵攻されるなど、戦いの連続。一時はビルマの属領となったアユタヤだが、17世紀初頭には再び政権を取り戻した。また、アユタヤは中国、インド、西欧の国々、日本などと交易をおこない、国際商業都市として栄えた。しかし1765年、再びビルマに侵攻され、2年間の戦いの後、1767年4月7日の総攻撃で一夜にして陥落。これにより仏典、寺院、仏像などがすべて破壊されてしまった。
アユタヤ王朝滅亡後、アユタヤの将軍だったプラヤー・タクシンが自ら王となり、バンコクの対岸にあるトンブリーを新都として定めた。タイ人は国の支配権を回復し、北部地方も中央のシャムに統合したが、やがてタクシンは自分を新しい仏陀と見なすなど、精神に異常を来すようになった。そして1782年、主要な将軍だったチャオ・プラヤー・チャクリーのクーデターにより倒れた。
タクシンを倒した後チャオ・プラヤー・チャクリーが権力を握り、王都をトンブリーの対岸のバンコクに移し、チャクリー王朝の王、ラーマ1世となった。ラーマ1世は過去のビルマの侵略によって衰退したタイ文化の復興に力を注ぎ、国内を整備した。そして国際情勢の変化に伴い、1855年、ラーマ4世はイギリスとの間に自由貿易を原則とする条約を結び、その後その他の西欧諸国とも同様の外交関係を築いた。さらにラーマ5世(チュラロンコーン大王)は奴隷制度、労役を廃止すると共に、司法、行政制度の整備、郵便通信事業、教育制度の制定、鉄道の建設など、近代国家としての基礎を作り上げ、絶対君主制を確立した。
第一次世界大戦と世界恐慌はタイにも深刻な不景気をもたらした。そんな中ラーマ7世が在位中の1932年、民主主義の理想に心酔したパリ在住の学生グループがシャム王国の絶対君主制に対してクーデターを起こし、立憲君主制への道を切り拓いた。ラーマ7世は混乱を避けるために国外へ亡命。替わってラーマ8世が即位したが、1946年、事故のために急逝。そしてラーマ8世の弟、現国王のプミポン・アドゥンヤデート殿下がラーマ9世として即位した。プミポン現国王が、名君の誉れ高いことは世界的にも有名で、2006年で即位60年を迎えた。経済面ではたびたび起こるクーデターの中、1997年7月タイ通貨が暴落するという事態に陥ってしまった。そこで破綻したタイ経済を取り戻すべく、 1997年9月には民主的な内容を盛り込んだ憲法改正が行われた。2001年にはこの新憲法にのっとって行われた全国選挙で、タクシン・シナワットが総理大臣として選ばれ、今後の活動が注目されている。